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| 鎌倉時代の館山 |
11世紀頃、本格的に登場してきた武士は、各地に強力な武士団をかたちづくります。なかでも東国武士団はその力が強く、そのリーダーとなったのが源氏でした。 源頼朝は、頼朝に従った武士たちに、以前からの土地の所有を認めたり、新しい土地や地位を与えたりしました。彼ら「御家人」が年貢を集め、土地を管理し、地方をまとめました。 頼朝と御家人の上下関係と、その支配が全国に及んだことにより、鎌倉幕府が誕生します。鎌倉が政治・社会の中心になると、館山にどのような影響があったのでしょうか。
1180(治承4)年に、石橋山の合戦に敗れた源頼朝は、伊豆から船で安房へ逃げ、勝山の竜島(鋸南町)へ上陸しました。ここで安房の武士を味方にしようと手紙を送ったのですが、何の音沙汰もないので、房総の地理に詳しい三浦義澄の案内で、夷隅の上総介広常(かずさのすけひろつね)を頼って東の方へ向かいました。しかし、鴨川の磯村にさしかかったとき、平家方の長狭六郎常伴(ながさろくろうつねとも)に襲われてしまいます。義澄の活躍で長狭氏を滅ぼし、難をのがれると、ようやく安西、丸、神余(かなまり)氏たちの助けを得られるようになり、300騎の兵を整えて、安房から上総へ向かいました。 安房には、頼朝にまつわる伝説が沢山ありますが、それらをつなぎ合わせると、左の図のようになります。
頼朝に従った安西景益(あんざいかげます)などの安房の武士達は、平家との戦いのために、瀬戸内海や九州まで出かけました。壇の浦で平家を滅ぼして鎌倉へ帰って来るまで、1年以上の月日がかかっています。 頼朝は、安房での再起をはかってから、12年後に鎌倉に幕府を開きました。功績のあった三浦氏は、安房の北部を所領にして、安房の最有力者になりました。安房で頼朝の御家人になった武士には、安西氏や丸氏、神余氏の他、安東氏、山下氏、多々良氏など、安房南部の武士たちがいました。
安房は、鎌倉とは海路で近いため、鎌倉の有力な神社やお寺、幕府の有力者の所領も多くありました。特に執権の北条氏一族の勢力が及んだようです。館野地区の安房医師会病院の敷地で、北条氏ゆかりのお寺でしか使われない、鎌倉時代の瓦が出土したことがあります。平久里川の湊に近いことから、鎌倉と安房を結ぶ重要なお寺だったのかもしれません。 また鎌倉の文化の影響も及んで、豊房地区の小網寺には、鎌倉の一流の職人が作った梵鐘(ぼんしょう)や、鎌倉で有名な審海(しんかい)という僧侶が使った仏教の道具が残されています。

●おもしろ探検隊:豊房の小網寺 |
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